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熊野古道つまみ食い

実 施 日 2015年11月24日~27日
報 告 者 佐藤文昭
参加者数 7名 (会員1名、非会員6名)

 大学山岳部仲間の7名が熊野古道の峠を3つ歩いて来ました。
 2台の車を使い、峠を1-2時間歩いてから、温泉旅館に3泊という旅行でした。
熊野古道とは熊野三山へ至る、伊勢路・紀伊路・大峯奥駆道等のことであり
今回は伊勢路のごく一部を歩いた

今回寄ったのは赤丸の所である。種まき権兵衛の里は数字で19番のところにある。
クリックすると三重県HP:世界遺産熊野古道伊勢路に繋がります)
このイラストはこのHPからダウンロードしたものの一部です

11月24日

東京から新幹線で名古屋、関西線・紀勢線で松阪駅

初日は午後からの行動、ツヅラト峠を越えた

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ツヅラト峠登口 自動車道から離れる

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道標は必要ないが100m毎に立てられている のんびりと歩く


 伊勢から歩いてきた巡礼者はツヅラト峠で浄土へとつながる熊野灘を感激して見ることになる。
 仏教では西方の阿弥陀浄土と同様、南方にも浄土があるとされ、補陀落と呼ばれた。
 熊野灘での補陀洛渡海は日本の中世において行われた、生きて帰らぬ捨身行の形態である

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渡海船:中に入った行者は生きて出ることはない
極楽浄土へ向かう船に神道の鳥居とは?
「野面乱層積み」の石垣

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石積みの階段を降りる ツヅラト石道終了

11月25日

 保存状態も良く石畳も美しい馬越峠(まごせとうげ)を越える。 
 峠を越える前に「種まき権兵衛の里」に寄る。馬越峠から左へ登ると天狗原山

馬越峠を越える 峠から天狗倉山往復 そして尾鷲へ降る

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権兵衛の里・案内看板 権兵衛が種蒔きゃカラスがほぜくる

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この火縄銃は権兵衛のものではないだろう 権兵衛の里 日本庭園

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馬越峠入口 峠への石畳道

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石畳が続く 峠で休憩

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天狗原山頂上の大岩下 小さな社 天狗原山頂上は大岩の上

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尾鷲湾
尾鷲市

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尾鷲で道の駅に寄る 右が天狗原山 岩盤が隆起して海蝕された「鬼が城」

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海蝕で刻まれた獅子岩 最古の神社・花の窟

11月26日

 「通り峠」を越えて、丸山千枚田へ降りた。熊野大社でスサノオノミコトの本地仏は阿弥陀如来との説明に驚き、図らずも本地垂迹について学ぶこととなった。
 熊野三山参詣は仏に極楽浄土を願うということであって、神仏を一緒くたに並列に信仰するものではない。

通り峠を越えて、丸山千枚田

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黄色いリボンは近日行われるトレイルランの為 「通り峠」入口

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苔むした石畳道 峠から展望台まで170段の階段

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丸山千枚田を見下ろす展望台 丸山千枚田

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通り峠を越えると道路に出る 丸山千枚田に向かう

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都会のオーナーは下のホテルに泊まり農作業を楽しむ 獣害を防ぐ電気柵

丸山千枚田の後 熊野大社を訪問 桧皮葺の屋根が美しい

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スサノオノミコトは阿弥陀如来!!?? 神様のお使い「八咫からす」

 明治元年(1868年 )の神仏分離令以前、熊野では神仏は習合していました。
 6世紀に伝来された仏教ですが、次第に神道と融和。平安後期には本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想が浸透していきます。
 本地垂迹思想とは、神の本地(本体)は仏であるという考え方。仏や菩薩が人々を救うために仮に神の姿をとって現われたのだという考え方です。もとの仏や菩薩を本地といい、仮に神となって現われることを垂迹といいます。その仮に現れた神のことを権現といいます。
 平安末期、12世紀には、熊野三山それぞれの12の社殿に祀られた神々は熊野十二所権現と呼ばれ、すべて本体は仏や菩薩であると考えられました。
 本宮の主神の家都美御子神は阿弥陀如来、那智の牟須美神は千手観音、新宮の速玉神は薬師如来を本地とするとされ、本宮は西方極楽浄土、那智は南方補陀落(ふだらく)浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土の地であると考えられ、熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになりました。
 阿弥陀如来を本地とした家都美御子大神を主神とする本宮は、阿弥陀の極楽浄土とみなされ、その社殿は「証誠殿(念仏者の極楽往生を証明する社殿の意)」と呼ばれ、そこに参詣すれば浄土往生が確実になるとされ、平安後期以降、浄土教の聖地として栄えました。                                                 
(熊野大社HPより

 上記HPの解説は本地垂迹説を肯定しているのかのようだ。単なる歴史的解説ではないように思われる

アルパイン・スキー・クラブ・小林会員から解説をいただきました
「本地垂迹説について」
をお読みください
 最下段 

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熊野大社に文豪・佐藤春夫邸が東京から移築されている 佐藤春夫邸前の案内

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熊野川の観光船 熊野速玉大社

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ホテル・浦島へは陸路からは行けない 連絡船は朝のラッシュには行列ができる

11月27日

 最終日は峠越をやめ那智大社と那智滝を見るだけとなった、
那智勝浦駅から昼の列車で帰った。

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那智山・青岸渡寺 那智大社

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那智滝 那智滝を近くから見上げる

おまけ
種まき権兵衛の里には「種まき権兵衛」の俗謡が聴ける時計台を兼ねた塔があるが
長いこと故障のまま放置されているので、その俗謡を聴くことはできない。
作業員にそのことを言うと、CDに焼いたのをあげるから待てと言って奥に入っていった。
なかなか出てこないので、あきらめて車で離れてしまったが、車で追いかけてきてCDを渡してくれた
そのCDに入っていたのがYoutube「権兵衛祭り」のと同じものであった。


民話・種まき権兵衛


権兵衛祭り

本地垂迹説について   

大学受験参考書には、日本の神は仏(本地仏)が仮に姿をかえて現世に現れたもの(権現)とする考えであると書いています。仏が神に姿を変えて人々を救済するということですから、仏優位説です。

では日本古来の神様の本地仏が全て決まっているかと言えばどうもそうではないようです。

よく言われるのは

天照大神が大日如来
八幡さんが阿弥陀如来
熊野権現が阿弥陀如来
秋葉権現が観音菩薩
エビスさんが毘沙門天
白山の本地が十一面観音
立山は阿弥陀如来

などです。

 仏教の日本伝来は西暦552年とも538年ともいわれますから、神道の方が古いのですが、仏教側が神道の神様を取り込んでいったようです。キリスト教やユダヤ教、イスラム教など1神教は頑なに他の崇拝物を拒否しますが、仏教のような多神教はなんんでも受け入れます。だいたい釈迦がその教えを完成するについてもインド古来のジャイナ教やヒンズウー教の神、たとえば梵天や毘沙門天を取り込んでいます。インドのエローラ遺跡にいけばこの3宗教の石窟が並んでいますが、仏像のスタイルなどどれが仏教なのかそれ以外なのか、説明がないと我々にはわかりません。

 同様に仏教が日本に伝来してその教えを広げるについて日本古来の神を取り込んでいった訳です。神社側がなぜそれを受け入れていったのか、調べましたが不明です。

 しかし平安時代には寺院を守護するために神社を勧請するケースが多く、有力寺院は境内に神社を構えるケースが多くありました。また今では考えられないことですが、平家による焼き討ちで焼失した大仏殿復興祈願に、大勧進重源は60人の僧侶を引き連れて伊勢神宮に参詣し神前で大般若教を読誦、同時代南都仏教の改革を目指した貞慶も伊勢神宮内宮で天照大神を感得しています。春日大社には僧侶が経供養を行うための場所が堂内に設けられていて今でもそのまま部屋があります。

 思い出しましたが、春日大社の神が最初に御蓋山に下り立った神聖な奥宮を笠置寺に移す話が進んでいますよ。

 江戸時代ですが神社には別当寺という寺があって、神社の祭祀に僧侶が出っ張って主宰していました。神社と寺院が完全に分離したのは明治の神仏分離以降のことです。

以上みましたような歴史的な関係を考えれば神社側も寺院に主導権を持って行かれるのに今考える程、抵抗感はなかったかもしれません。

しかし本地垂迹説に対し、鎌倉時代には、逆に仏が神の権化で、神が主で仏が従と考える神本仏迹説も現れたようです。室町時代の元寇で日本は神国であるという思想が出てこの動きが加速され、江戸時代に本居宣長は日本古来の思想を重視する為には仏教以前の日本の道である古事記を出発点としなければならないという復古主義を唱えて、これが平田篤胤の復古神道に受け継がれ、尊皇思想と国粋主義を発展させて明治維新につながったのです。

明治まであと半年の慶応4年3月に神仏分離令が出されました。神仏分離令はもともと神仏を分離する運動として行われましたが、神祇事務局により進められましたため神道寄りとなり、仏教を異端視して神道の国教化政策を推進する大きな動きとなりました。寺院が宗旨人別帳を通して幕府による人民統制の一機関として力を持ち、それをバックに僧侶が権勢を振るっていたため、それに反感を持っていた民衆も参加したことでその動きは増幅されたものです。

さらに維新政府の行った廃仏毀釈がそれに輪をかけて寺の荒廃は大きく加速しました。廃仏毀釈の結果、全国で廃寺となった寺院数は当時の寺院のほぼ半分にも及んだともいわれています。これにより日本の貴重な文化遺産が相当消失したことは残念なことです。毛沢東の文化大革命、アラブ過激派の偶像破壊と並んで本当に残念です。

現在神社側から本地垂迹説を否定するような動きは感じられないようです。これは日本人がクリスマスはキリスト降誕にかこつけて遊び、正月に初詣を神社で、お盆にはお坊さんをよんで先祖を供養するという無宗教状態のおおらかさから、神社の本地をことさら意識せず、祭神が石でも、山でも、はては明治の偉人でもよく、手を合わせてその雰囲気だけにありがたさを感じる日本人相手ですから、神社もことさら本地垂迹説に異論を呈するメリットを感じないのではないかとおもいます。

「熊野三山も昔ながらの本地垂迹という信仰に戻ればよいはずだ」は逆で、「昔ながらの神道に戻れば良いはずだ」と思いますが、訴えのメリットは以上の通り感じていないはずです。

以上思いつくままに筆を走らせました。

                2015,12,24   小林義亮記


いい加減が一番!
            みんな違って、みんな良い
(小林宗峰・高野山真言宗阿闍梨)

仏教が日本に伝えられた時、人々は仏教を異国の新しい神と考えました。
しかし時代を追うごとに仏教は日本の教えとして定着し、仏の面々も習合思想により、神々と同居をするようになりました。
これは本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)と呼ばれ、仏が神の本地と考えられていました。

伊勢神宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、大日如来。
熊野の本宮大社は阿弥陀如来。
新宮速玉大社は薬師如来。
那智大社は観音菩薩。
三輪山の神は地蔵菩薩。
祇園の八坂神社の神、牛頭天王(スサノオノミコト)は薬師如来が本地仏なのです。

このようにい今までの神は仏との共存共栄を果たすことで、共に排除される争いを起さなかったのでした。

いいかげんですね~。

でも、これは賢い智慧といえないでしょうか?
白黒つけずに、両方の良いところを見て受け入れる、きわめて融通に富んだ思想です。
もちろんこれを、いいかげん「良い加減?」と言う人もいるでしょう。
この習合思想を育んだのが修験道でした。
----中略
しかし日本には、競争社会の原理が馴染んでいません。
対立を避けようとする、いいかげんな思想(良い加減な)、習合思想が日本人の得意なのです。
自己主張をせずにうまく話をまとめようとするのです。
-----中略
日本人は山川草木に神仏が宿る思想を持っています。
お天道様や「ののさま」(月のこと)と無邪気に手を合わせることが重要なのです。
私たち日本人は、自然の中で、石、月、草、花、雲、海、山と話をすることができるのです。
最近良く売れているクリスタルやチベット天珠など、各種の輝石も新しい神なのです。

これからは、それぞれの神々の共通点を探し出して、「みんな違って、みんな良い」曼荼羅の思想になりませんか?